Cies サイドストーリー
 
笹森カワ丸

弥生の頃。
桜の蕾が膨らみ、春も間近。
訪れし一つの便り。
それが…。
青年と少女の別れとなった。


「お風呂が焚けましたわ」
そう言いながら、割烹着姿の少女が襖から顔を覗かせた。
「すまないな、こんな朝っぱらから」
居間で食後の一服をしていた青年は悪びれた様子で呟く。
「出立の日なのですから、少しはきれいにして頂かないと困ります」
笑顔のまま、凛とした口調少女は返す。
予測した答えだったのか、青年はそれを流して立ち上がる。
そして、何かを探すように辺りを見回した。
「えっと…」
「はい、どうぞ」
少女の手から手拭いが差し出される。
用意がいいのはいつものこと。
「………」
「…どうかなさいました?」
「…いや…なんでもない。ありがとう」
手拭いを受け取り、それを肩に掛けた。
「じゃあ、すっきりしてくるわ」
「はい」
少女の返事を背に、青年は廊下へと出た。

………。
……。
…。
「ふぅぅ…」
吐いた息の音が僅かに響く。
「はぁぁ…」
立ち昇る湯気を吸いながら、青年はもう一度大きく息をついた。
檜の風呂には、お湯が溢れんばかりに張ってある。
青年はそれに肩まで浸かっていた。
熱いお湯に筋肉が徐々に弛緩していく。
ばしゃっ…
浴槽からお湯を掬い、それで顔を洗う。
顔から伝わる熱が、体の緩みに拍車を掛けた。
「…いい湯だ…」
何ともなしにそう呟いていた。
コン…コン…
落ち着いた空気を壊さないよう、控えめに響く音が聞こえた。
脱衣所へと続く引き戸。
その磨り硝子の向こうに影が映っていた。
「お湯加減はいかがですか?」
いつもどおりの問い掛け。
「ああ。丁度いいぞ」
青年もいつも通りに返した。
「下着はここに置いておきますわ」
「了解」
これも、いつも通りのこと。
「あ、そうだ。今日は…」
「シャツは背広といっしょに寝室の方に用意しておきますから」
「………」
青年の心を読んだかのように、少女は彼の言葉を遮った。
「…了解。ありがとう」
「はい」
少女の返事。
それを聞いて、青年は目を瞑った。
真っ暗な視界。
聞こえるのは、天井から落ちる水滴の音。浴槽を波立つ湯の音。
そして…。
「…ん」
違和感に、目を開けてその方向を見る。
いつもではないこと。
磨り硝子の引き戸。
そこには、まだ影が映ったままだった。
「…どうした?」
向こう側に居る少女に声を掛ける。
「…あっ…」
その声に我に返ったように、少女の体がびくっと震えたのがわかった。
「どうかしたのか?」
「…何でもないです!」
予想以上に大きな声が浴室に響いた。
「………」
「…あっ…まだ支度がありますから」
誤魔化すように、足早に影は去っていく。
「………」
何となく…。
何となくだが…青年には少女が泣いているように見えた。
「まさかな…」
しかし、それをすぐさま否定する。
もう何年も、少女の涙は見ていない。
今年で十四になる少女が、青年に泣いている姿を見せたのは、六つの時。
青年と少女。二人が最も尊敬し、愛した人が彼らの前から姿を消した日。
あの日が最後。
「………」
おぼろげな記憶。
それに思いを馳せる。
「………」
ぴちょん…
「…冷たっ」
想い出をかき消すように、水滴が青年の鼻を打った。
冷たさに我へと返る。
「…そろそろあがるか…」
誰に言うでもなくそう呟き、青年は浴槽から身を上げた。

「ほっ」
鏡の前で視線を決める。
初めて着る一張羅の背広に、青年は浮かれていた。
「こんなもんか」
もう一度、格好よく見える姿勢を取る。
「よし」
自信満々で、居間へと続く襖に手を掛けた。
がら…
「どうだ、この…」
青年の言葉はそこで止まった。
いや…途切れざるをえなかった。
「………」
視線の先。
赤。
目も覚めるような朱。
緋色の着物に身を包んだ少女がそこにいた。
「…どうかしました?」
「………」
…綺麗だった。
「あっ、ネクタイが曲がっていますわ」
そう言って、赤い小袖を捲くり、白魚のような手を青年の首元に差し出す。
「………」
…その出で立ちは、二人にとって大切だった、もういない人を思い出させる。
「…これでよし」
「………」
「…本当にどうしたんですの?」
怪訝な少女の顔。
青年はようやく自分を取り戻す。
「…いや…大丈夫だ」
しどろもどろになりながら、青年は声を絞り出した。
しかし、少女はくるりと背を向けたあとで、青年の小さな声は彼女に届いてはいなかった。
少女は後ろにあった大きな鞄を持ち、再び青年の方へとやってくる。
「はい、どうぞ」
昨日準備した旅支度。
このほとんどの用意も、少女がやってくれたものだった。
「この子も…」
そう言って、少女は大切な人形を差し出した。
「…ありがとう」
「はい」
………。
二人で玄関へと移動する。
青年はしゃがみ込み、卸したばかりの革靴を履いていた。
傍らでは、少女が重い鞄を持って、待っている。
「祖父さんと祖母さんは?」
彼は下を向いたまま、少女に尋ねた。
「…まだ、お休みになっています」
言いにくそうに、少女は答える。
「そうか…」
「せっかくの門出なのに…すみません」
「お前が謝ることじゃない」
いつものことだ…彼は、そう付け加えた。
「………」
少女は俯いて、青年から視線を逸らした。
………。
慣れない靴との格闘を終え、青年はようやく立ち上がる。
その顔は晴れやかだ。
「………」
それを見る少女の瞳が一瞬揺らぐ。
「…楽しみですか?」
唐突に、少女はそんなことを尋ねた。
「ああ」
返されたのは、大きな頷き。
「ようやく先生の下で学べるからな」
青年が今から向かう先には、彼の人生を変えた恩師が待っている。
目の前の青年が気づかない程の、僅かな逡巡。
少女はそれを隠すように微笑んだ。
「…おめでとうございます」
「ありがとうな」
礼を言いながら、少女から鞄を受け取る。
そして、玄関の戸を開けた。
ひょぉぉぉぉぉ…
風が運ぶは、春の匂い。
二人の前には、桜並木が広がっている。
青年と少女は、そこに足を踏み出した。


ざ…ざ…
桜吹雪の中。
青年は歩く。
少女は無言でその後に付いて行く。
二人が向かう先。
そこには、多くの桜の木に交じり、一回り小さな樹木が花を付けている。
桜桃(ゆすらうめ)
その袂で青年は立ち止まる。
「今年はこいつが食えないな」
そう言いながら、幹をぺたぺたと触る。
「そうですね」
春が終わる頃、この木には真っ赤なさくらんぼが実る。
甘いものが好きな二人には、それを食べるのが毎年の楽しみだった。
「代わりと言ってはなんでしょうけど…」
少女は懐から小さな箱を取り出した。
それは青年の大好物。
「キャラメルか」
「はい。餞別です」
彼は子供のような顔でそれを受け取る。
「本当にありがとうな」
そう言って、少女の顔を見る。
「ん…」
少女の髪に桜桃の花弁が張り付いていた。
払ってやろうと、少女の頭に手を伸ばす。
「花弁が…」
それと同時に、少女も青年の肩に付いた花弁を払おうと袖を伸ばしていた。
『あっ…』
声が重なる。
………。
青年と少女。
二人の視線が合う。
………。
……。
…。
青年にとって…妹は守るべきものだった。
少女にとって…兄は守るべきものだった。
………。
……。
…。
(はるか)
「はい」
「俺は…この家を離れていいのか?」
大学の合格通知が届いてから、ずっと聞けなかったこと。
青年はそれを初めて口にした。
………。
「お兄様」
「ああ」
「人には…持って産まれた運命というものがございます」
少女が瞳を閉じる。
「杳は…この家を…この血を守ること。そして、お兄様は…」
「………」
「お兄様の為すべきことを」
幼少の頃から、少女が言い続けていること。
青年にはそれが堪らなく悲しかった。
それでも…そう言う少女の顔はいつも優しい。
「お兄様は安心して、お出かけ下さい」
「…了解」
「ただ…」
「…ただ…?」
少女がゆっくりと瞳を開く。
「…杳の傍に帰ってきて下さいませ」
そして…満面の笑顔を青年に向けた。
「杳には…お兄様しかいないのですから」
柔らかな風。
花弁が舞う。
桜吹雪の中に佇む少女は、まるで一枚の絵のようで…。
「ああ、必ず帰ってくる」
………。
…信じていた。
青年は…大切な妹に…また会えることを信じていた。
「じゃあ、いってくる、杳!」
「いってらっしゃいませ、お兄様」
少女の声を背に、青年は歩き出す。
その姿が見えなくなるまで、少女は青年の背を見つめ続けていた。
………。
…知っていた。
少女は…大切な兄に…もう会えないことを知っていた。
………。
「…お兄様」
少女の瞳から涙が落ちる。
それを隠すかのように…。
桜桃も…溢れん限りの涙を零した。


『桜桃
 落つる花弁 隠せしは
 ひとへに君を 想ふ心よ』  

 

Cies Top | Dest Phase 1

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